曖昧さと寛容の間に
新しい社員が来てくれて早1カ月が経とうとし、自分自身も父親として同じだけの時間を経ています。
会える日は限られていて、妻は24時間息子のことを見て、感じて、”泣く”という行為1つにいろいろな思いを巡らせ、向き合っているかと思われます。
自分自身も父親として息子と向き合う時に、まだ幼いかもしれないけど、この子は今何を欲しているのか、泣いているその源は何か?などと考え、自ずと、こうしたらいいのか、ああした方が喜ぶのかなどと考え接しているわけですが、まぁ子供にとって泣く行為そのものもが仕事であり、理由なんてないのかもしれません。
まぁよく寝てくれます。寝顔が可愛すぎてご飯がすすみます🍚
この一連の思考は詰まる所、日常においても同じことが言えるのではとふと考えるのです。
お客様はもしかしたら今こんな風に考えているのではないだろうか?
こんな風に捉えたのではないか?
スタッフ一人一人立場やポジションが違う中で、この発言はこう捉えられたのでは?また、この年代の子たちはそうではなくて、こんなことを感じたのでは?
などなど、色々とめくるめく考えが、脳裏をよぎり仮説が仮説を呼ぶという、なんとも悪循環な思考に陥ることしばし。。。
だったら直接聞けば?
なんて思うこともありますが、言葉って不思議で、言葉にエネルギーを有するというか、別に宗教とかあまり興味ないですけど、言霊ってあると結構信じていて。。。
”言葉”はいつか自分に返ってくる壮大な人生のキャッチボールだといつも思っていて、投げかけた言葉は相手に届く届かない関係なく、最後に自分に戻って来ると感じる、いい言葉も悪い言葉も、自らのエネルギーで発した言葉は最終的に自分に責任があるってこと。
だからこそイマジネーションってとても必要。
仮説や想定。その思考に至る経路など、理由はきっと存在すると思います。
けど、反面、その意味を考えてはダメな時もありうるとも思います。
それを考えるのは他人の思考を自分ごとに置き換えてしまい、そのことによって疲弊するかもしれません。
矛盾や曖昧さは人間にとって意外と重要なのかもしれませんね!!
曖昧と寛容の間にある、”受け入れる”
その言葉と向き合いたい、そんな初夏です。
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